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大阪地方裁判所 平成2年(ワ)9373号 判決 1995年9月04日

原告

前谷勇

右訴訟代理人弁護士

中北龍太郎

被告

医療法人大和ファミリー会

右代表者理事長

南克昌

右訴訟代理人弁護士

本田陸士

右訴訟復代理人弁護士

津田尚廣

主文

被告は、原告に対し、四二六万四二〇二円及びうち三八七万四二〇二円に対する平成元年四月二五日から、うち三九万円に対する平成三年一月一〇日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを七分し、その三を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

この判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告に対し、七五九万四六二〇円及びうち六五九万四六二〇円に対する平成元年四月二五日から、うち一〇〇万円に対する平成三年一月一〇日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事実関係

一  事案の概要

本件は、いわゆる医療過誤訴訟であって、原告の実兄である前谷由春(以下「前谷」という。)が胸痛を訴えて救急車で被告の設置にかかる大和中央病院(以下「被告病院」という。)に搬入された際、前谷は不安定狭心症に罹患していた疑いがあるのに、被告病院の担当医師は肋間神経痛と誤診し、狭心症を悪化させる鎮痛剤を投与して前谷を帰宅させたばかりか、翌日、再度救急車で被告病院に搬入された際、担当医師は心電図などの必要な検査、診察をすることなく前谷を放置したため、前谷は同日、心筋梗塞を原因とする心のう血腫症により死亡したとして、相続人の一人である原告が被告に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償を請求しているものである。

二  請求原因

1  当事者等

(一) 前谷は、建設業に従事していた日雇い労働者であり、生前、大阪市西成区萩之茶屋一丁目一二番一〇号ホテルきのくに(以下「きのくに」という)。に宿泊していた者である。

(二) 被告は、肩書地において被告病院を設置するものである。

2  前谷の死亡に至る経緯

(一) 前谷は、平成元年四月二一日ないし二二日(以下、平成元年四月についてはその記載を省略することがある。)ころから左胸・左上腕部の痛みを訴え、二三日午後一〇時ころ、再度痛みがひどくなり息苦しくなった。そこで、きのくにの管理人は救急車を呼び、前谷は、同日午後一〇時四〇分ころ到着した救急車によって約一年前に一度通院したことのある被告病院に救急搬入された。

(二) 被告病院では、細井波留夫医師(以下「細井医師」という。)が前谷を診察したところ前谷の主訴は左胸痛と痛みが左上肢にもひびくというものであって、心電図検査でも異常との結果が出た。ところが、細井医師は、肋間神経痛の疑いと診断し、鎮痛剤を与えたのみで前谷を帰宅させた。

(三) 前谷は、二四日午前九時ころ、きのくにで苦しんで身動きができない状態のところを発見され、午前九時七分ころ再度救急車で被告病院に搬入されて高嶋秀真医師(以下「高嶋医師」という。)の診察を受け、午前一〇時三〇分ころ四階三〇三号室に入院し、午前一〇時四五分ころ心電図検査が施行された。

(四) 前谷は、同日午前一一時ころ病状が悪化し、午前一一時一〇分から心筋梗塞の治療がされたが、午後〇時五分、心筋梗塞を原因とする心のう血腫症により被告病院で死亡した。

3  被告の責任原因

(一) 前谷の主訴及び死亡原因に照らすと、前谷は、二三日夜の段階で狭心症に罹患していたものである。そして、被告ないし細井医師としては、前谷の主訴及び心電図検査の結果から、前谷が狭心症に罹患していることを疑い、十分な問診を尽し、必要な検査を行って、前谷が狭心症に罹患していると診断したうえ、前谷を入院させて定期的な観察、検査をし、血管拡張剤、血栓溶解剤の投与などの治療を行って心筋梗塞へ移行することを阻止すべき義務があった。それにもかかわらず、細井医師は、十分な問診を尽くさず、必要な検査もしないまま、肋間神経痛と誤診して右の処置を何ら講ぜず、却って狭心症を悪化させる危険性がある鎮痛剤を投与したため、前谷は翌日、心筋梗塞になって死亡したものである。

(二) 前谷は、二四日被告病院に救急搬入された際、胸部の激痛で身動きできない状態であったのであるから、被告ないし高嶋医師としては、直ちに心電図検査をして心筋梗塞の診断をし、前谷を二次救急病院に転送するか又は心筋梗塞に対する適切な治療をすべき義務があった。それにもかかわらず、高嶋医師は、前谷が被告病院に到着した同日午前九時七分から約一時間四〇分後の午前一〇時四五分ころまでの間、前谷に対し、心電図検査など必要な検査及び緊急入院などの処置をしないまま放置し、かつ、前谷を安静にして同人を移動させる場合には、ストレッチャーを利用して移動させなければならないのに、午前一〇時三〇分ころ、前谷を被告病院上階にある入院用ベットのある部屋まで歩行移動させて前谷の症状を悪化させ、しかも、午前一一時一〇分まで心筋梗塞の治療を行わなかったため、前谷は心筋梗塞により死亡したものである。

(三) 右(一)(二)のとおり、前谷の死亡は被告の履行補助者である細井医師及び高嶋医師の診療契約上の過誤によるものであるから、被告は診療契約に基づく債務不履行として前谷らが被った損害を賠償する義務がある。また、細井医師及び高嶋医師の右の過誤は前谷に対する不法行為を構成するものであるところ、右両医師は被告に雇用されている者であるから、被告は使用者責任に基づき右の損害を賠償する義務がある。さらに、前谷の死亡は被告病院の管理運営上の過誤によるものであるから、被告は不法行為に基づき右の損害を賠償する義務がある。

4  前谷らが被った損害

(一)(1) 前谷の逸失利益

二〇一六万二三四〇円

前谷は、死亡当時満六〇歳であり、東研工業株式会社で働いており、日給一万七〇〇〇円、通常一か月あたり二五日間実働していたから、平均月収は四二万五〇〇〇円であった。したがって、右を基礎に生活費控除を四〇パーセントとし、ホフマン係数6.589を乗じると、前谷の逸失利益は二〇一六万二三四〇円になる。

425,000円×12月×6.589×(1−0.4)=20,162,340円

(2) 前谷の慰謝料 二五〇〇万円

(3) 葬儀費用 一〇〇万円

(二) 相続

前谷には妻子がなく、両親も既に死亡しており、前谷の相続人は、原告を含む兄弟姉妹七名である。したがって、原告は、(一)の損害金合計四六一六万二三四〇円につき、法定相続分七分の一に相当する六五九万四六二〇円を相続により取得した。

(三) 弁護士費用 一〇〇万円

5  よって、原告は、被告に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償として、七五九万四六二〇円及びうち六五九万四六二〇円に対する不法行為の日の翌日である平成元年四月二五日から、うち一〇〇万円に対する訴状送達の日の翌日である平成三年一月一〇日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

三  請求原因に対する認否

1  請求原因1のうち、(一)の事実は知らない。(二)の事実は認める。

2  同2(一)のうち、前谷が四月二三日午後一一時ころ、約一年前に通院したことのある被告病院に救急搬入されたことは認め、その余の事実は知らない。

同2(二)のうち、心電図検査を実施したところ異常との結果が出たことは否認し、その余の事実は認める。

同2(三)のうち、前谷が四月二四日午前九時ころ、きのくにで苦しんで身動きができない状態のところを発見されたことは知らない。その余の事実は認める。

同2(四)の事実は認める。

3  同3は争う。

(一) 被告病院が四月二三日に前谷に実施した心電図検査によると、境界域(異常)の心電図として負荷判定については可(注意)であり、完全右脚ブロックとの結果が出ている。負荷判定可(注意)とは、心電図の負荷判定をすることは可能であるが、その検査には注意を要するという意味である。完全右脚ブロックとは、不整脈で一般にみられるものであり、狭心症・心筋梗塞を疑えるものではない。細井医師は、右の心電図検査の結果から狭心症や心筋梗塞の疑いを否定し、聴診の結果から特に緊急を要するような肺疾患の疑いを否定し、前谷が昔に肋間神経痛と一度言われたことがあり、肋間にひびくような痛みがあると述べたことから、肋間神経痛の疑いと診断したのである。したがって、細井医師の診断はやむを得ないものであって、この点に過失はなく、被告ないし細井医師が前谷を入院させて定期的な観察、検査をした上で血管拡張剤、血栓溶解剤の投与などの治療を行わなかったからといって、被告が責任を負う理由はない。

(二) 前谷は、同月二四日、救急隊員に介助されながら徒歩で被告病院に来院し、高嶋医師・看護婦らの問診、質問にも通常に対応したのであり、血圧、体温、呼吸も特に異状はみられなかった。その後、高嶋医師が前谷に対し、入院の必要性を説明し、入院手続をとったのであり、その間前谷はトイレに行ったりロビーの椅子に座って待機していた。そして、前谷は病室へ徒歩で入室した。被告病院は、このような前谷をみて特に異状はないと判断したものであり、被告が責任を負う理由はない。また、前谷は、同日の心電図検査時より数時間ないし十数時間前に左冠動脈主幹部の血栓性閉塞を来たし、左心室の広範囲前壁の急性心筋梗塞を発症して心筋の壊死が進行し、午前一一時から一一時一〇分ころに左心室前壁の心筋断裂による穿孔を来たして心のう内に出血し、心タンポナーデにより急速な経過で死に至ったものであり、左冠動脈主幹部の閉塞による広範囲前壁梗塞は極めて予後不良の心筋梗塞であって、死亡率は八〇パーセントないし九〇パーセント以上であるから、仮に右の心電図検査を前谷の来院直後に施行していても、前谷の死亡という結果は回避できなかったものであって、前谷の来院直後に心電図検査を施行しなかったことと前谷の死亡との間には因果関係がない。

4  同4(一)は争う。

同4(二)のうち、前谷の相続関係に関する事実は知らない。その余は争う。同4(三)は争う。

第三  当裁判所の判断

一  前谷が心筋梗塞による心のう血腫症で死亡するまでの経過についてみるに、当事者間に争いのない事実並びに甲第二号証、第一二号証、第一三号証、証人住吉惇、同細井波留夫、同高嶋秀真、同仲谷のり子の各証言、検証の結果、調査嘱託の結果及び弁論の全趣旨によって認められる事実は次のとおりである。

1  前谷は、昭和四三年ころからきのくにに居住し、平成元年四月当時満六〇歳で、日雇いの雑役工に従事していた。

2  前谷は、平成元年四月二一日ころから胸に息苦しさを感じていたが同月二三日、きのくにに居住する友人の住吉惇(以下「住吉」という。)に対し、胸痛を訴え、左脇から左腕の内側にかけても痛みがある旨述べ、当日は仕事にも出なかった。

3  前谷は、同日夜、きのくににいたが、午後一一時ころ、きのくにの管理人に胸痛を訴え、管理人の一一九番通報により到着した救急車に一人で歩いて乗り込み、被告病院へ搬送された。救急隊員が救急車内で前谷をみたところ、同人の顔色、表情、呼吸及び脈拍は普通で、意識も正常であり、歩行にも異状はなかったが、同人は胸痛が治まらない旨を訴えていた。

4  被告病院では、内科の非常勤医師で当直医である細井医師(専門は麻酔科)が診察にあたり、問診を行ったところ、前谷は左胸痛を訴え、左上腕にも痛みがひびくと述べた。看護婦が前谷の血圧などを測定したところ、血圧は一五二(収縮期)/九〇(拡張期)、脈拍は八四であった。その後、細井医師が前谷に触診及び聴診を行ったところ、肺及び心臓に異状は認められず、腹部音でも異状は認められず、腹部の緊張はやわらかかった。また、そのときに行った心電図検査のコンピューター結果は「完全右脚ブロック」であり、その総合所見に対するコメントとしては「症状がなく、原因疾患がない場合は、経過観察をしてください。」というものであった。細井医師は、心電図検査では完全右脚ブロック(刺激伝導系の右脚の伝導障害であって心疾患ではなく、正常人にもみられるものである。)を示すものの心筋梗塞などを示す異状がみられないこと、前谷が、問診において、肋間にひびくような痛みがあり、昔に肋間神経痛と一度言われたことがあると述べたことから、肋間神経痛の疑いと診断し、内服薬としてニフラン(鎮痛消炎剤)及びロキソニン(鎮痛剤)を投薬し、前谷に対し痛みが持続しまたは強くなるようであれば来院するよう注意を与えて、間もなく同人を帰宅させた。

5  住吉は、二四日午前八時ころ、前谷がきのくにの入口そばの階段横で足を投げ出した状態で呼吸を荒くして苦しんでいるのを発見した。住吉から依頼を受けた管理人の一一九番通報により到着した救急車で、前谷は被告病院へ搬送された。救急隊員が救急車内で前谷をみたところ、同人の顔色、表情、呼吸及び脈拍は普通で、意識も正常であり、歩行にも異状はなかったが、同人は前夜からの胸痛を訴えていた。

6  前谷は、午前九時七分、被告病院に到着し、救急隊員に両脇を抱えられながら一階の診察室に入った。被告病院では、同日救急外来担当であった内科の高嶋医師が診察することになり、前の救急患者の診察が終わった午前九時二〇分ころ、前谷を診察したところ、前谷は胸痛を訴えていたが、肺、心臓に異状はなく、腹部に圧痛がみられたことから、肝臓が腫れているものと考えた。看護婦が前谷の血圧などを測定したところ、血圧は一三二/八〇、体温は三六度、脈拍は一〇八で不整脈は出ていなかった。高嶋医師は、前谷が前日に救急車で被告病院に搬入されて肋間神経痛の疑いと診断されていたものの、二三日、二四日の二度にわたり胸痛により救急車で被告病院に搬入されたことから、他の病気ではないかとの疑いをもち、看護婦に対し、胸部及び腹部のレントゲン撮影を指示した。なお、高嶋医師は右の時点で前谷の心電図検査を行っていないし、その指示もしていない。

7  高嶋医師は、午前九時五〇分ころ、前谷に対し、検査のための被告病院への入院を勧め、前谷は入院手続をするため、被告病院の一階廊下で待機していた。その後、高嶋医師は、前谷の入院指示票を作成して看護婦に対し、血液検査などを行うよう指示した(なお、被告病院では、患者が入院する場合には自動的に心電図検査を行うことになっているので、右の時点で高嶋医師は特に前谷の心電図検査を指示していない。)。

8  前谷は、午前一〇時三〇分ころ入院手続を終えて四階病室に入った。高嶋医師は、病室で前谷を診察したが、瞳孔の不同がなく、肺及び心臓にも特記すべきことはなかった。

9  入院病棟の看護婦が前谷の入院直後に血圧等を測定したところ、前谷の血圧は一一二/八二、体温三五度、脈拍九六であり、そのとき、前谷は、顔色が良くなく、看護婦に対し、全身の倦怠感、胸苦及び胸痛、左上腕及び左背部の差し込むような痛みを訴えていた。その後、前谷が痛み止めの注射を希望したことから、看護婦は、高嶋医師の指示を仰いでメナミン(鎮痛消炎剤)を前谷に注射し、午前一〇時四五分ころには、前谷の心電図検査を行った。

10  前谷は、午前一一時ころ胸痛を強く訴えるようになったので、高嶋医師は前谷を重症病室(酸素吸入ができる病室)へ移した。

11  高嶋医師は、午前一一時一〇分ころ、前谷の心電図検査の結果を見たところ、心筋梗塞の症状を示していた。また、そのころ、前谷は胸痛を訴え、苦悶表情を示し、顔色も不良であった。そこで、高嶋医師はハートモニターを装着するとともに酸素吸入(一分間あたり三リットルの酸素)を行うとともに鎮痛剤、局所麻酔剤等を投与した。

12  午前一一時二〇分、前谷の呼吸が停止し、脈拍が四〇まで低下したので、高嶋医師はアンビューバック(人工呼吸器の一種)で呼吸蘇生術及び心臓マッサージを開始した。また、午前一一時五五分、高嶋医師は前谷に対しカウンターショックを施行したが、午後〇時五分、前谷は死亡した。

13  大阪府監察医事務所が前谷の解剖を行ったところ、主要な剖検所見は、左冠状動脈に血栓があって内腔をほぼ閉塞し、心筋内に出血があり、左室前壁に梗塞がみられ、三箇所に裂孔があり、心のう内に軟凝血を多量に含んだ血液が約三〇〇ミリリットル貯留していたとのことであった。そして、同事務所は前谷の死因を心筋梗塞によって心筋破裂を来たしたことによる心のう血腫症であると判断した。

二  原告は、前谷が四月二三日に被告病院へ搬入された際、既に狭心症に罹患していたのに、細井医師が肋間神経痛の疑いと誤診したため、前谷は心筋梗塞となって死亡した旨主張するので、右の主張の当否について判断する。

1  甲第四号証、第八号証ないし第一一号証、第一九号証、証人有馬利治、同細井波留夫、同高嶋秀真、同林健郎の各証言によると、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(一) 虚血性心疾患の一つである狭心症とは、可逆性の心筋虚血により生ずる(左)前胸部ないし胸骨裏面の疼痛、圧迫感、灼熱感、不快感を主訴とする疾患をいい、心筋の酸素需要に見合う酸素の供給が十分行われないため一過性に心筋虚血を生じ出現する疾患である。そして、狭心症は労作時狭心症(労作時に発症するもの)と安静時狭心症(一定の頻度で発症するもの)に分類され、また、安定狭心症と不安定狭心症にも分類される。狭心症のような虚血性心疾患は、加齢に伴い急増するといわれている。

(二) 不安定狭心症とは、①初めて労作時狭心症が始まったか、または少なくとも六か月ぶりに以前にあったものが再発した場合、②症状、経過ともに長期間安定していた労作時狭心症の頻度、強さなどが急に増悪した場合、③新しく安静時に狭心症が起こった場合で、その症状が数週間以内に始まって、最後の胸痛発作が一週間以内に起き、心筋梗塞を示す心電図所見などがないものをいう。

不安定狭心症は、右のように、発作が初めて生じた時期や発作が悪化する時期のもので他の狭心症の場合と比較して、急性心筋梗塞への移行や急死する危険性が高い。逆に、急性心筋梗塞の側からみた場合、症例の約半数に前触れ的な狭心症の発生や、これまであった狭心症の悪化がある。

(三)  一般に、胸痛、とくに左の胸痛を訴える患者を診察する医師としては、狭心症などの虚血性心疾患が急性心筋梗塞の発症や急死につながることから、まず第一に狭心症を疑って問診及び心電図検査、血液検査などを行い、その他の疾患とを鑑別する必要がある。そして、狭心症か否かの診断にあたっては、狭心症に罹患していても通常の心電図検査や臨床検査値に異状がみられないことが多いため、詳しい問診が最も重要とされ、次の点を一つずつ確かめて労作時狭心症、安静時狭心症、安定狭心症、不安定狭心症か否かを鑑別診断したうえ、それぞれに応じた治療、生活指導をすることとされている。

(1)  狭心症の発作の性状は、「しめつけられるような」、「息が詰まるような」、「胸がやけるような」などといった特有の胸部苦悶感を訴えるものであり、一ないし五分くらいの短い発作が最も多い。痛みを訴えるのは、胸骨裏あたりの漠然とした部位が多く、胸部全体、背部、上腹部、首、顎、歯のこともある。随伴症状は少ないが、軽い冷や汗、息苦しさを伴うことがあり、肩から手(とくに左)に痛み、しびれ感が放散することがある。

(2)  労作時狭心症と安静時狭心症とは、発作の誘因、時間帯によって区別される。労作時狭心症は、労作(急ぎ足の出勤、買い物、階段、重いものを運ぶなど)で誘発され、体動を止めると発作は数分以内に治まる。これに対し、安静時狭心症では、とくに誘因はなく、安静時とくに夜の睡眠中、早朝に発作が生じる。また、労作時狭心症が悪化した時期に安静時狭心症とともに生じるものとして、食事、洗面、排尿、排便、入浴などの日常生活動作で誘引されるものがある。

(3)  不安定狭心症かどうかということは、発作の経過によって判断し、初めて発作が生じた場合、初めての発作が一旦治まったが、数か月以上経って再発した場合、数か月以上一定の発作状態であったものが最近悪化した場合には、不安定狭心症とされる。

2 前谷が四月二三日に被告病院に搬入された際、前谷が狭心症に罹患していたかということについて検討する。

右に認定したとおり、狭心症は虚血性心疾患の一つであって、加齢に伴い急増するものであり、狭心症のうちでも、安静時に発作が新しく発現し、その症状が数週間以内に始まり、最後の胸痛発作が一週間以内に起きたものは不安定狭心症と分類され、不安定狭心症は急性心筋梗塞へ移行したり急死に至る可能性が高いというのであり、前谷は当時満六〇歳であって、同月二一日ころから胸に苦しさを感じており、二三日夜間の安静時に胸痛のため被告病院に救急車で搬入され、細井医師の診察に対しても、左胸痛を訴え、左上腕にも痛みがひびくことを述べていたものであるところ、甲第七号証、証人細井波留夫、同有馬利治の各証言によると、ひびくような痛みとは放射痛(連関痛)、すなわち、内臓疾患の場合に一定の皮膚部に投射されて感じさせられる痛みをいい、左上腕にひびくような痛みがあるというのは、心臓疾患、とくに狭心症の典型的な痛みの症例の一つであることが認められるのであり、これに加え、一で認定したとおり、前谷が翌二四日に胸痛により救急車で被告病院に搬入され、数時間後に心筋梗塞による心のう血腫症で死亡したことを総合すると、前谷は二三日に被告病院へ搬送された際、不安定狭心症に罹患していたとみるべきである。

もっとも、同日細井医師が行った心電図検査では狭心症であることを窺わせる異状が示されていなかったというのであるけれども、1で認定したとおり、狭心症は心電図検査では異状を示さないことも多いというのであるから、心電図検査の結果において狭心症や心筋梗塞の症状を示すような異状がないからといって、前谷が狭心症に罹患していないとみることは相当ではない。

3 細井医師が前谷を肋間神経痛の疑いと診断したことについて、医師としての注意義務違反の有無を検討する。

甲第五号証、証人有馬利治、同林健郎の各証言によると、肋間神経痛とは、胸にある胸髄から出た十二対の胸神経の前の枝(肋間神経)のうち、特定の末梢神経領域に限局した痛みが数秒から数分間、発作的に出現し、間欠期には全く無症状のものを指すこと、肋間神経痛の場合でも、第一肋間神経と第二肋間神経に痛みがある場合、左腕にも痛みが伴うことがあること、肋間神経痛の鑑別診断は、肋間神経の表面に出てくる出口に圧痛があるかどうかを確認する方法によって行われること、左胸から左腕にかけて痛みを訴える場合、まず重篤な症状へ移行する危険性がある狭心症などの虚血性心疾患を疑い、問診その他の検査結果から虚血性心疾患の疑いを完全に否定した場合に初めて肋間神経痛を疑うべきものであること、以上の事実が認められる。

これを本件についてみるに、検証の結果によると、細井医師が肋間神経痛の疑いと診断したときのカルテには、前谷の胸痛発作の性状、誘因、時間帯、経過についての記載がされておらず、肋間神経痛と診断するためには、当然に必要であるはずの圧痛点を確認したことの記載もされていないことが認められる。しかるところ、前谷のような症状を呈している患者を診察した医師としては、既に認定したとおり、まず狭心症などの虚血性心疾患を疑い、これが完全に否定された場合に初めて肋間神経痛を疑うべきものであり、狭心症かどうかを診断するにあたっては詳しい問診が最も重要とされているのである。したがって、細井医師が前谷を診察した際、胸痛発作の性状等について十分な問診をしたうえで狭心症等の虚血性心疾患の疑いを否定し、圧痛点を確認して肋間神経痛の疑いと診断したのであれば、診断の根拠となったそのような重要な事項については、少なくともその要点だけでもカルテに記載がされていなければならないはずである。それにもかかわらず、細井医師が前谷を診察した際のカルテにその点の記載がまったくされていないことからすると、細井医師は、胸痛発作の性状等について十分な問診を尽くさないまま、前記のとおり、心電図検査では心筋梗塞を示す異状が見られないことから、安易に狭心症の疑いを否定し、圧痛点の確認をしないまま、前記のとおり、前谷が、肋間にひびくような痛みがあり、昔に肋間神経痛と一度言われたことがあると述べたことから、これまた安易に肋間神経痛の疑いと診断し、鎮痛剤を投与して前谷を帰宅させたものといわざるを得ず、細井医師には診断及びとるべき処置を誤った過失があるというべきである。

4  そこで、次に、四月二三日の時点で前谷に対し狭心症を疑って必要な処置を講じておれば同人の死亡を回避することができたかどうかということについて検討する。

(一) 甲第一九号証、証人有馬利治、同細井波留夫、同林健郎の各証言、検証の結果及び弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。

(1) 不安定狭心症またはその疑いのある患者に対して医師がなすべき処置としては、入院させる必要があると判断される患者に対しては、直ちに入院させて患者を安静に保って経過観察を行い、酸素を投与して心臓の負担を軽減し、ニトログリセリンなどの冠動脈拡張剤を投与して末梢血管を拡張させ、カルシウム拮抗剤を投与し、心筋収縮抑制剤であるβブロッカーを投与して心臓の動きを緩やかにし、血栓防止のために抗血小板剤または抗凝固剤を投与して心筋梗塞への移行を防止する処置を講じる。また、入院させる必要がないと判断される患者に対しては、右と同様の投薬を行って自宅での安静を指示する。そして、入院させるか否かを問わず、右の処置を講じておれば、不安定狭心症に罹患している患者が心筋梗塞へ移行する程度はかなり改善され、不安定狭心症に罹患している患者が心筋梗塞に移行しなければ死には至らない、すなわち救命率は一〇〇パーセントである。

(2) 細井医師が四月二三日に前谷に対し、肋間神経痛の疑いとして投与したニフラン及びロキソニンは、いずれも非ステロイド系の鎮痛剤であるところ、これらはいずれもプロスタサイクリンの合成を阻害するものである。ところが、プロスタサイクリンは血小板凝集阻止作用を持ち、血栓形成を防止するとともに、臓器の血管を拡張させ、血流を増加させる働きがあるから、プロスタサイクリンの合成を阻止するニフラン及びロキソニンを前谷に投与することは、不安定狭心症を悪化させる原因となる。

(二) 右の事実によると、細井医師が四月二三日の時点で前谷に対し、不安定狭心症であると診断し、又は少なくともその疑いを否定せずに、これにそった適切な処置(ニフランやロキソニンを投薬しないことを含む。)をとっておれば、約一二時間後の二四日午前一〇時四五分の心電図検査で心筋梗塞を示す症状には陥っていなかった蓋然性が高いと考えられ、また、心筋梗塞が発症しなければ救命率は一〇〇パーセントであるというのであるから、右の時点で前谷に対し、狭心症を疑って必要な処置を講じておれば同人の死亡を回避することができた蓋然性は高かったというべきである。

そうだとすると、細井医師の右の過失行為と前谷が心筋梗塞によって死亡したこととの間には相当因果関係があると認めるのが相当である。

5  以上によれば、細井医師の前谷に対する診断及びとるべき処置の誤まりは前谷に対する不法行為を構成し、これによって前谷は死亡したものであるから被告は使用者責任に基づき前谷らが被った損害を賠償する義務がある。

三  前谷らが被った損害額について検討する。

1  逸失利益について

甲第一号証の三、第二〇号証、証人住吉惇の証言及び弁論の全趣旨によると、前谷は、死亡した当時、満六〇歳の独身男性であり、日雇い労働者として平成元年一月は一六日間、同年二月は二三日間、同年三月は二五日間、それぞれ東研工業株式会社で働き、日給一万七〇〇〇円を受け取っていたこと、同年一月から同年三月までの給与合計は一〇八万八〇〇〇円(月額平均三六万二六六六円)であることが認められるけれども、本件全証拠によっても、前谷が死亡前の一年間、一か月平均二五日間実働していたことは認め難いし、日雇い労働者である以上、仮に前谷が死亡していなかったとしてもその後一か月平均二五日間稼働し、又は月額三六万二六六六円以上の給与を受けられたとまで認定することはできないことからすると、前谷が東研工業株式会社から受け取っていた給与を基礎に逸失利益を算定するのは相当でない。他方、本件では、前谷が死亡当時日雇い労働者として稼働していた以外には、同人の学歴などが一切明らかではない。結局、本件において、前谷の逸失利益を算定するにあたっては、平成元年賃金センサス第一巻第一表の産業計・企業規模計の全国性別・年令階級別・年次別平均給与額表によって算出するのが相当である。そして、右賃金センサスによると、満六〇歳の男子労働者の年間収入は三七五万〇四〇〇円であり、就労可能年数は八年とみるのが相当であるから、そのライプニッツ係数6.463を乗じ、前谷は死亡当時独身であったから生活費控除を五〇パーセントとして逸失利益を算出すると、一二一一万九四一七円になる。

3,750,400円×6.463×(1−0.5)=12,119,417円

2  慰謝料について

本件に現れた一切の諸事情を総合考慮すると、前谷の精神的苦痛を慰謝するには、一五〇〇万円をもって相当と認める。

3  葬式費用について

原告は、前谷の葬式に要した費用として支出した一〇〇万円を損害として主張するが、本件全証拠によっても、右の一〇〇万円が支出されたことを認めることはできないから、右の主張は失当である。

4  相続

甲第一号証の一、二、五ないし八、一〇によると、原告は、前谷の死亡により、少なくとも相続分七分の一について、前谷の権利を承継したことが認められる。そうだとすると、原告は、前谷が被った1、2の合計二七一一万九四一七円の損害賠償請求権の七分の一である三八七万四二〇二円を相続により取得したというべきである。

5  弁護士費用について

弁論の全趣旨によると、原告は、本件訴訟を提起するにあたり、原告訴訟代理人に対し、弁護士費用を支払うことを約したことが認められ、本件事案の性質、訴訟追行の程度、本件訴訟の認容額などに照らすと、原告が被った弁護士費用相当の損害額は、三八七万四二〇二円の約一割である三九万円と認めるのが相当である。

四  以上によれば、原告の請求は、不法行為に基づく損害賠償金四二六万四二〇二円及びうち三八七万四二〇二円に対する不法行為日の後である平成元年四月二五日から、うち三九万円に対する訴状送達の日の翌日である平成三年一月一〇日から各支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから、その限度でこれを認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官窪田正彦 裁判官佐賀義史 裁判官島岡大雄は転補につき、署名押印することができない。裁判長裁判官窪田正彦)

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